すこやかなのは個人か社会か
どういう社会であれば健やかなのだろうか。「すこやかな社会」という表現がある。ひとりひとりが健康な社会ということだろうか。たぶんそうであろう。しかし、社会のあり方が健やかという発想は含まれていないのだろうか、含まれているのだろうか。
「”すこやかひょうご”障害者福祉プラン」では、個人の健康のことではなく、社会のあり方を「すこやか」という言葉が意味しているように思う。また、高知新聞の記者は、「人々が心豊かに生活できる『すこやかな社会』」(―21世紀企画― すこやか高知21 68万人社会に挑む)という表現を使っている。この場合は、「人々が心豊かに生活できる」ということの言い換えなのだろう。
私の場合は、「すこやかな社会」という言葉から連想するのは、「社会問題の存在しない社会」というようなことである――これをデュルケムやマートンの文章を読んだ人は実現不可能な理想であると考える。もちろん、病人の存在しない社会というのもありえないことだろう。
最後に付け加えると、「すこやか社会」という「な抜き言葉」も使われるようである。「すこやか福祉」(香川すこやか福祉白書)という言葉もあるようだから、一般化しつつあるのだろう。
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