ピラミッド型組織を連想させる「緊急連絡網」について
緊急連絡網(役員用)
ピラミッド型組織を連想させる「緊急連絡網」というもの。矢印が下へ下へと向かっている。下から上への情報の流れは想定されていないのだろうか。上の方に自分の名前があって「リーダー」と書いてあると、自分が偉くなったような気分を味わうことができる。これは私だけのことだろうか。防災「統括者」とかリーダーとか図に書いてあるが、緊急時にどんな権限や義務があるのかは不明だ。図の最上部の自治連合会長以外は、自宅で連絡を待って固定電話の近くで待機していないといけないのだろうか。
町内会に組と班とがある。およそ5世帯が所属する班は、少なくとも私が住む地域では、制度的にも日常生活においても、意味をなしていない。多くの場合、友人関係や相互扶助行為は、「5人組」の物理的範囲を超えているのであって、江戸時代の5人組制度のような発想で住民に指示を出したりするのは現実の住民の地域生活を無視しているものと言わざるを得ない。また、夜間人口と昼間人口の区別も考慮されていないのではないか。実際、「正・班リーダー」とか「副・班リーダー」というものは、避難訓練においてさえも機能するものではなかったようだ。
非常時に、「防災統括者」である自治連合会長の指示で校区全体の町内会加入世帯(約2,000世帯)が一斉に避難活動をすることなどが想定されているのであろう。付け加えていうと、私たちの町内会では非加入世帯(151世帯中13世帯、2021年4月現在)がリストから外れている。
安全な場所に避難している自治連合会長(携帯電話番号が名前とともに表示されているのは自宅にはいないということだろう)から始まるこの町内会役職別分担表(名前と固定電話番号が表示されている)に従って住民が「伝言ゲーム」をやっても、作戦中の軍隊のようにはうまくいかないのではないか——非常時に気をつけなければならないのは、流言蜚語の問題であろう。
深刻な事態であれば、作成が自己目的化していて家のどこかにしまい込まれている緊急連絡網シートに頼るのではなく、危険が迫っている地域において関係当局(自治体、消防、警察など)が、直接に個々の住民に、色々な方法で連絡する方が合理的なのではないだろうか。日本災害情報学会会長の片田敏孝氏のような「防災専門家」の「行政依存をやめなさい」というお説教はこういうことについてではないと信じたいところだ。市民が「行政依存」をやめるべきだという主張は、「小さな政府」のイデオロギーに加担しているのではないか。「市民による防災」が、それとは別の「コミュニティの再生」のための手段として位置づけられているのもおかしい。
流言現象について、内閣府防災情報のページに以下のような内容を含む報告書が掲載されている。
関東大震災時には横浜などで略奪事件が生じたほか、朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部[太字にしたのは引用者]による殺傷事件が生じた。流言は地震前の新聞報道をはじめとする住民の予備知識や断片的に得られる情報を背景に、流言現象に一般的に見られる「意味づけの暴走」として生じた。3日までは軍隊や警察も流言に巻き込まれ、また増幅した。(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月)
縦のものを横にしたこの図だと、印象が少し違う。作成者のセンスの問題なのだろうか。しかし、操車場の図のように枝分かれする一本線は、途中で断線してしまわないだろうかということに気づく。
防災とコミュニティ
「防災によるコミュニティ再生」(片田敏孝氏)という発想は、具体的にどのような意味を持つのだろうか。片田氏が「市民による防災」を「コミュニティ再生」の手段と位置づけているのであれば、再生すべきコミュニティの性格をもっと明確にする必要があるだろう。あるいは、防災に地域社会が取り組むことの副次的な効果として、コミュニティ再生を捉えているのかもしれない。その場合でも、具体的にどのようなコミュニティが再生されるのかについて明確にする必要がある。どちらの場合であっても、理想化されたコミュニティが住民にとっては、監視や拘束と結びついた相互扶助システムのディストピアとなる可能性がある。そのような抑圧的で権威主義的なシステムにならないようにする方法は、どの程度考慮されているのだろうか。避難訓練の成功が動員された人々の数で評価される状況などからも、さまざまな問題点が浮かび上がる。
もともとわが国では、コミュニティは地域にとって防災の要だった。その象徴が「火消し」だ。江戸の町は全ての建物が木造で、ひとたび火災が発生すれば、瞬く間に延焼が起こり、町が焼き尽くされてしまう。当然、現代でいう「行政の指示」を待っている場合ではなく、地域の皆で共有する重要な問題だった。コミュニティの存在は自衛手段として必然だったと言える。ところが、「火消し」が消防行政となったことで、コミュニティを維持する必要性が薄れ、煩わしさの方が大きく認識されることとなった。(行政依存やめ「あなた」が備える それが日本の防災の原点 「想定外」の災害にも“揺るがぬ”国をつくるには---Wedge ONLINE)
近年の自然災害の激甚化により、住民は行政対応の限界を感じ、行政の手が届かない部分は地域コミュニティで対応せざるを得ないことに気付き始めている。この状況を好機と捉え、「地域にとっての共通の壁である自然災害に皆で向き合うことでコミュニティの再生につなげる」と考えるべきだ。(行政依存やめ「あなた」が備える それが日本の防災の原点 「想定外」の災害にも“揺るがぬ”国をつくるには)
どういう状態を「コミュニティ」と片田氏は定義しているのだろうか。「もともとわが国では、コミュニティは地域にとって防災の要だった」という言い方が出てくる。江戸の「火消し」がその象徴であると説明されているが、共同体とか地域共同体とかではなく、コミュニティという片仮名言葉を使う意図をどの程度意識しているだろうか。
特に都市部においては隣人の顔さえも知らない人が少なくない。コミュニティの崩壊により防災ができず、共助の推進が難しいとの声も多く聞かれる。しかし、今こそ発想を転換すべきではないか。(行政依存やめ「あなた」が備える それが日本の防災の原点)
「私助・共助・公助」という分類も曖昧で、公助を行政によるものと捉え、共助を地域共同体内における相互扶助と捉えているようだが、市民が「行政依存」をやめるということは具体的にどういうことなのか。「コミュニティ再生」を万能薬として処方する考え方は、行政の役割をスリム化すべきだという「小さな政府」のイデオロギーと結びついているのではないか。それとも、「行政は万能ではない」という当たり前のことを言っているだけにすぎないのだろうか。
5人組のようなものを復活させることが可能であるとは思われない。自治体関係のウェブサイトに以下のような記述があって参考になる。
「五人組」とは、江戸幕府が強制施行した庶民の隣保組織です。原型は律令制下の五保制度で、直接には豊臣秀吉が治安のために置いた五人組・十人組の流れを汲みます。 村方では総百姓を単位に、原則として5軒1組で組織し、相互監察、相互扶助、貢納確保などのため連帯責任制をとりました。のちには幕府・領主の意思伝達、相互扶助に重点がおかれ[太字は引用者]、明治時代になると「衛生班」、戦時中には「隣組」となりました。( 第70話 五人組制度:猪名川町教育委員会教育振興課 社会教育室)
幕府の庶民統制として知られている制度に「五人組」制度がある。五人組は五戸前後の家を組み合わせて設置されたもので、年貢の納入、キリシタン・浪人の取り締まり、日々の生活にまで立ち入って、彼等に連帯責任、相互監察の役目を負わせ、支配の末端組織[太字は引用者]として重要な役割を荷(にな)わせた。名主は「五人組帳」というものを毎年領主に差し出した。この五人組帳には組員全員が署名捺印している部分と、その前に彼等が守らなければならない法度が数々記された部分とがあり、この法度の部分を「五人組帳前書」といつている。(村の法度 五人組帳:嵐山町web博物誌)
「勤労奉仕」や「出不足金」のことなどに関心を持っていた2年前の2021年に購入した本に池田浩士『ボランティアとファシズム:自発性と社会貢献の近現代史』(人文書院、2019年)がある。その中で著者は、「阪神・淡路大震災以降の日本社会の歴史が、ボランティアの活動を抜きにしては社会が動かないという方向に進んできた」(24ページ)という広く共有された認識に注目している。阪神・淡路大震災以降には、もちろん、2011年3月の「東日本大震災」も起こっている。厄介なのは、池田氏も触れている「地震と津波によって壊滅しメルトダウンした原子力発電所の破局的事故」(同ページ)の問題であり、廃炉等の見通しが未だに立っていない状況を忘れるわけにはいかない。こちらの方は、ボランティアの活動に期待する方向を、政府も電力会社も今のところ想定していないようだ。
一部の町内会においてみられる属性としてとらえられるもの
都市社会学者近江哲男が町内会の属性として全部で15項目をあげる中で、「一部の町内会において見られる」ものとした4項目のうちの3項目を以下にあげる。彼は、これらを町内会の本質的な特徴であるとはみなさなかった。「長老的・ボス的な旧中間階級によって支配される世界」であるとか、「威光と権力の場」であるということは、その地域の人びとの考えや行動に左右されるものとして捉えたわけであろう。
別稿の注1で取りあげたように「地域の有力者に根回しをしてから全体の調整に入る手法」が重視されたりすることも、その地域に住む人びとがそのことに疑問を持っていない限りにおいて、きわめて有効な組織運営のスタイルなどであろう。
「まちづくり協議会の活動があまり活発ではないため、組織の充実を図る必要がある」(北九州市)という課題
北九州市 市民文化スポーツ局 地域振興課が令和4年4月に発行したパンフレット『みんなが主役の地域づくり・まちづくりのために』を見ると、まちづくり協議会だけでなく、町内会・自治会の場合にも当てはまる事柄が取りあげられている。
「組織の充実」という課題のために、役員の定年制・任期制の導入が推奨されている点が興味深い。
「みんなが主役の地域づくり」というスローガン(あるいはキャッチフレーズ)がある。これは、「草の根のレベルの民主主義」を唱道するものであろう。 しかし、「活動があまり活発でない」という認識が共有されているようだ。なぜ活動が活発でないのか、また、なぜ活動が活発でないとして問題視されるのか。
「笛吹けども踊らず」という事態であるならば、笛を吹くグループの権威や正当性の問題——選出のされかたや組織運営の透明性など——であるかもしれない。また、踊りたくない人にとっては、聞こえてくる笛は耳障りのものでしかない。
「市民による防災」という発想が出てきているが、旧来の拘束的で権威主義的なシステムを復活させるわけにはいかないはずだ。「組織の充実」に「万能薬」はないであろうが、様々な工夫が必要なのであろう。
[補足]
石巻市の大川小で起こったことは、ある程度知っている。申し訳ないことだが、「釜石の奇跡」というのを知らなかった。津波、洪水、土砂崩れなどの被害は地形的な面から被害の予測が立てやすく、避難すべき場所の指定も可能かもしれない。「奇跡」と言われているようだが、奇跡ではなかったということなのであろう。「想定にとらわれない」に始まる「避難3原則」というのは、子どもたちが「徹底して身につけていた」ということだが、抽象的すぎてその「実用性」がよくわからない。シミュレーションや訓練をしょっちゅうしていたことの成果なのだろうか。
学校という組織の災害時の対応の仕方と地域住民のそれとは、区別して議論する必要があることは予想される。「コミュニティ再生」というスローガンがしばしば語られるが、地域社会全体を、学校や、会社、軍隊などと同じように組織化することが不可能であることは言うまでもない。
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