バーナード・マラマッドの「レンブラントの帽子」を読んで
数時間前に本の写真だけを載せて「これから書きます。何かについて反省する記事になりそうな予感がします」と書いておいたが、書き始めてみると書きようがない。ニューヨークの美術学校に勤務するルービンとアーキンの話。感銘を受けなかったのではなく、身につまされる話であったという事情である。夏葉社発行の本の帯には、「マルマッドの最高傑作である/ 表題作ほか/ 引出しの中の人間/ わが子に殺される/ の2篇を収録」と書かれている。「レンブラントの帽子」は、マルマッドの最高傑作と評価されているようだ。2番目の「引出しの中の人間」では抑圧的な体制の下での作家の生き方が米国からの旅行者の目からスリリングに描かれているが、「レンブラントの帽子」の方は、日常的な、美術学校の同僚の間でのやりとりが描かれている。ルービンは、彫刻家であり、アーキンは、「美術史家」である。
私の周りにもルービンがいるかもしれない。私も、自分の能力や実績に不満を持っているルービンかもしれない。私は、アーキンのように相手のことを理解できるかどうかわからない。他者を理解しようとする余裕が、状況によってはどれだけあるものなのだろうか。だが、レンブラントが偉大な画家であるという発想を排除してしまえば、ルービンもアーキンも仲違いをする必要がなかったのではないか。それは、夜郎自大というもので無理なことなのだろうか。
作者バーナード・マラマッドが、レンブラントの絵を高く評価していたということは推測できる——レンブラントの絵(帽子を被った自画像)を私も美術館で見てみたい。和田誠氏が装丁を担当した本の表紙だけでなく。ルービンが被っていた帽子を見て、アーキンがその絵に言及したことが仲違いのきっかけという筋になっている。何も起こらない場合には、物語にならないので、小説の中にレンブラントの絵を登場させる必要があったのであろう。
意味のない感想になってしまった。「文学を考えるうえでマラマッドはたいせつな世界をもっていた」という荒川洋治氏の「巻末エッセイ」での評価に同意する。
追記:
ChatGPT君に「レンブラントの帽子」について感想を尋ねてみたら、まったくでたらめであった。そもそも登場人物の名前が違っていた。トレーニング・データが不完全なのだろうか。それとも、そそっかしい性格なのだろうか。
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