ユーモアと優しさをもってしか語れない絶望や暗転がある。
「モラリティをもってしないと描ききれない非モラルな状況があります。アイロニーをもってしか語れない幸福や安寧があり、ユーモアと優しさをもってしか語れない絶望や暗転がある。」
『巨大なラジオ/泳ぐ人』(ジョン・チーバー著、村上春樹訳、新潮社発行)の「解説対談」(対談の相手は柴田元幸氏)で村上春樹氏がその最後に語っているこの言葉は、自分自身の創作についてだが、チーバーの短編小説にも当てはまることとして語られているのであろう。「非モラルな状況」を描くにはモラリティという枠組みが必要であり、完全な「幸福や安寧」は存在せず、「絶望や暗転」の中に人間の無力と滑稽さを見ることができるということだろうか。

訳書の最終章は「なぜ私は短編小説を書くのか?」というタイトルで、その中でチーバーは、「我々が経験によって支配されている限り、そしてその経験が強烈さと挿話的性質によって特徴付けられている限り、我々は短編小説というものを文学の中に含め続けるだろうし、言うまでもないことだが、文学がなければ我々は滅びてしまうだろう」と書いている。時間をつぶして小説を読むことを正当化してくれているようで、励まされる気がする。「文学がなければ我々は滅びてしまうだろう」という言葉にも何だか説得力がある。
村上春樹氏の訳で出てくる「挿話的」という言葉がよく分からない。anecdotalのことではなく、episodicのことなのであろう。行間を読むならば、「その人にとって重要な出来事の勃発と展開、結末」ということではないだろうか。村上春樹氏が訳したチーバーの短編小説集を「巨大なラジオ」から「シェイディ・ヒルの泥棒」まで毎晩1編ずつで8編読んでみて——残りはあと11編——、そのように考えた。「挿話」という言葉は、「挿入された話」ということだろうから、辞書で調べるとepisodeの原義のままであり、日本語としてはあまり意味をなさない。episodeを挿話に置き換えるだけでは不十分であるように思う。
翻訳というのはたいへんに厄介な作業であるから、翻訳に取り組んでくれたことに感謝する気持ちは変わらない。ジョン・チーバーという作家のすばらしさを村上春樹氏の訳で味わうことができて満足している。
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