「一部現地保存」(北九州市)のはずが、なぜ墓標のようになってしまったのか?
北九州市は山下設計・久保建設設計による建物の実施設計を変更せずに進もうとしてきたのだから、文化財としての価値を毀損しない形での「現地部分保存」はほとんど不可能であった。「全面保存か解体か」という「2項対立」になったのはそのためだ——「部分保存」の可能性をつぶしてきたのは、文化財保護のルールを無視して初代門司港駅遺構の破壊を強行してきた北九州市であり、「保存運動」のありかたが批判されるとしたらそれは的外れだ。残念ながら、専門家や市民の声に教育委員会や都市ブランド創造局は耳を傾けることはなかった。高潮浸水想定区域に指定されている場所に複合公共施設を建設することに対する批判も無視されてきた。指名競争入札や随意契約が実施されていったから、途中で立ち止まる態勢になかった。
「ちゃんとした調査」だけでいいとは思えない。やはり、重要なところを現地保存するべきであった。そのためには、山下設計と久保建設設計のおこなった実施設計を大幅に修正する必要があった。しかし、それは市当局の選択肢になかった。そして、「既存構造物」とりこわし工事が進められ、その工事監理業務委託は、「慣例」的にその山下設計であった。



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