志向性とは
志向性について、「意識は常になにものかについての意識である」というような説明の仕方がなされることがあるが、これは誤解を招く言い方だ。むしろ、「意識現象は常になにものかについての現象として現れる」と言った方がわかりやすい。
— 渡辺恒夫『フッサール心理学宣言:他者の自明性がひび割れる時代に』(講談社、2013年2月)
渡辺恒夫氏の「志向性」に関する記述の解釈(Gemini)
渡辺恒夫氏の著書『フッサール心理学宣言』からの引用は、フッサール哲学の重要な概念である**志向性(intentionality)**について、その一般的な説明が誤解を招く可能性があると指摘し、より適切な表現を提案しています。
「意識は常になにものかについての意識である」という説明が誤解を招く理由
渡辺氏は、よく使われる「意識は常になにものかについての意識である」という表現が不適切だと述べています。これは、この表現が以下の点で誤解を招く可能性があるためと考えられます。
意識の主体性を強調しすぎる可能性: この表現は、あたかも意識そのものが能動的に「何かについて」意識している、という主体的な働きを過度に強調してしまう可能性があります。しかし、フッサールの志向性は、単に意識が対象を持つという構造的な側面を指します。
「について」の捉え方: 「〜について」という言葉は、意識が対象を「認識する」「考える」といった具体的な行為を連想させやすいです。しかし、志向性はもっと広い意味で、意識が常に何らかの対象と結びついているという根源的な関係性を指します。意識は、それ単独で孤立して存在するのではなく、常に何らかの対象を指向している、ということです。
「意識現象は常になにものかについての現象として現れる」という説明がより分かりやすい理由
一方で渡辺氏は、「意識現象は常になにものかについての現象として現れる」という表現の方が分かりやすいと主張しています。これは、以下の点でより適切であるためと考えられます。
「現象として現れる」という客観性: 「現象として現れる」という表現は、意識が特定の対象を伴って立ち現れるという、より客観的かつ記述的な側面を強調します。これは、意識が特定の状態や経験として現れる際には、必ず何らかの対象を伴っている、というフッサールの基本的な洞察をよく表しています。
意識の受動的な側面も含む: この表現は、意識が能動的に何かを意識するだけでなく、対象が意識の中に「現れる」という受動的な側面も包含しています。例えば、目の前にリンゴがあれば、意識はリンゴという対象を伴って「現れる」のであり、意識が積極的にリンゴを「作り出す」わけではありません。
志向性の本質をより正確に表現: 志向性は、意識が常に何らかの意味内容や対象を指し示しているという、意識の根源的な構造を指します。渡辺氏の表現は、この「指向されている対象」が意識経験と切り離せない関係にあることを明確にしています。
まとめ
渡辺恒夫氏の指摘は、志向性という概念を理解する上で非常に重要です。彼は、意識が能動的に対象を「意識する」というよりも、むしろ意識が立ち現れる際には常に何らかの対象が伴って現れるという、より根源的な事実を強調しています。
簡単に言えば、私たちが何かを感じたり、考えたり、知覚したりする時、そこには必ずその「何か」が存在し、私たちの意識はその「何か」と切り離せない形で現れている、ということです。この「何か」が、志向性の「なにものか」に当たります。
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