デジタル庁発足に際して「データ共同利用権」という概念が
宮田裕章氏によって提起されたようだ。宮田氏は、北九州市(武内和久市長)が任命した
10人のアドバイザーの1人である。
(宮田裕章氏のnoteより)
これに対する批判記事が以下のもので、鈴木正朝氏の意見が紹介されている。「本人同意を得ずに医療データを活用する取り組み」が「21世紀の基本的人権」として取りあげられていることに疑問を投げかけている。
気になるのは、「基本的人権」という言葉だ。これは日本国憲法が定める基本的人権の書き換えを迫っているようにも読み取れる。人権とは決して奪えない個人の権利を指す言葉だ。
しかし、提案内容は公益のためのデータ利用を推進しようというもので、むしろ個人の権利であるプライバシーを一部制約しようとしているように見える。このような議論のために「人権」という言葉を持ち出したことは不適切だったのではないか。
「昨今まれに見る最悪の意見」──デジタル庁の議論「データ共同利用権」に専門家が異議 “プライバシーフリーク”鈴木教授に論点を聞く
ところで、最初の宮田裕章氏は、次の文の中で「社会的距離」という表現を用いているが、「物理的距離を取る」と言う方が適切であろう。 「we keep a distance of at least 1m from each other and avoid spending time in crowded places or in groups」のことだろうから。宮田氏の「最大多様」というような概念と伝統的な「社会的距離」の概念とは親和性がなく誤解を招きやすい。
一方で、私を含む現場以外の立場では何ができるのか?それはやはり社会的距離をとり、今はできるかぎり家にいることです。感染経路が見えない間は、様々な行動制限の中で感染を押さえ込むしかないのです。
今、「医療崩壊」以外のことも考えなければならない理由 — 宮田裕章氏のnote
正直に言って、下のような宮田氏作成の図でまともな議論ができるとは思えない。岸田文雄氏の「新しい資本主義」と同様に、選挙ポスターによくある大言壮語のキャッチフレーズのようだ。例えば、「生活者発想」というのは、「統治者発想」と具体的にどのように違うのか。「生活者」というのは「被統治者」の言い換えに過ぎないのではないか。「データ共有発想」は、「独占資本」が「スマート・シティ」(注)での利益最大化のために求めているものなのではないか。こんなものを出発点として「日本国憲法」をいじろうとしているのならば呆れてしまう。
(最大「多様」の最大幸福 The Greatest happiness of The Greatest “Diversity” — 宮田裕章氏のnote)
[注]
『スマート・イナフ・シティ』(ベン・グリーン著、中村健太郎・酒井康史訳、人文書院発行、2022年)という本がある。Putting Technology in Its Place to Reclaim Our Urban Futureというのが副題。「スマート・シティ」とか「DXと地方創生」、「自治体DX」というキャッチフレーズで語られる内容に違和感を持っている人は、その違和感が正しいことを、取りあげられている色々な例で確信することができる。
現在のところ、スマート・シティのアーキテクチャは根源的に非民主主義的である。多くのテクノロジーが、個人のデータを収集し、民間所有の不透明なアルゴリズムを使うことで、人の人生を左右するような決定を行っている。その過程で、大きな情報と権力の非対称が生み出されているのだ。政府や企業の立場は、監視や分析の対象となった人びとよりも有利なものとなる。
(『スマート・イナフ・シティ』p.137
)